蕪Log

同人サークル「蕪研究所(ブラボ)」だったり、日常のよしなしごとだったり。あらゆる意味で日記です。

結局小説は「自分の心に従って書く」のと「客観的な理解とのすりあわせをする」のどっちが優先かという話

いま、両方の主張がある界隈に身を置いていて、いろいろ考えさせられることがあったので、現時点での考えをまとめてみます。酒のあてにはちょうどいいでしょう。

まずは、「面白い作品を書くために」お互いが主張していることを整理しましょう。

「自分が満足出来る作品ならば、自分のような人間には響くはず……」

自分の心に従って書く人間の主張は、概ね「最初の読者である自分が満足出来る作品作り」という点に尽きるようです。

自分が面白いと思えない作品は、誰が読んでも面白くない。一方自分が面白いと思える作品は、自分のような”感性”を持った人間が面白いと感じてくれる。

故に、面白い作品を書くためには、自分を満足させる必要がある。こういう考えです。

対して、「作者の心象を写像した物が、そのまま受け入れられるわけがない」

一方の客観的な理解とのすりあわせをしたい派閥は、主観の存在を徹底的に排除します。

作者の思い込みの中にしかない事象を文章に表現しなかった場合、読者はそのことを知ることが出来ません。それが往々にして、”伏線”という美辞麗句に飾り立てられた隠匿になってしまい、結果として、何が書いてあるんだかよく分からない怪文章になりがちです。

故に、文字書きは客観性の権化であるべきだというわけです。提示されている情報で物語が理解できるかどうかを、第三者の目線で見られるかどうか。その観察眼こそが物語を紡ぐものに必要だという主張ですね。

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お互いに一理あるように見えます。そりゃあ、ありますとも。

だって……

どちらも、物書きとしての最低限のスキルじゃないですか?

界隈で対立しているように見える主観性と客観性っていうスキルは、両方持ち合わせていなければたぶん、物書きは名乗れないのです。

「伝える」ための客観性

両者の言う面白い物語というのは、つまるところ「何らかの心象の動きを与えることができる」文字の羅列だと考えられます。

つまり、まずはとにもかくにも、物語を頭の中に思い描いてもらわなければ始まらないわけです。そのために必要になってくるスキルが、物語を理解してもらうために必要な情報を適切に供給するスキル……すなわち客観性の側面になります。

奇書怪書の類いでない限り、客観性が全ての基礎です。理解されなければそっ閉じ、ブラウザバックなどの憂き目を見るでしょう。

ここで言う客観性とは、物語を書くという目線よりももっとメタの目線、即ち「誰に物語を読まれるか」という想定を含みます。よく言われる読者層の想定というやつです。フィールドに応じて語彙を変更することもまた、客観性スキルの内に含まれると言えるでしょう。

何度も繰り返しますが、文章が客観性において校閲されることは、”理解される”文章における最低ラインです。これを怠ったがために物語が伝わらないことを嘆いていては、いったい何を書いているのか分かりません。そもそも小説とは、単語、文節、文法、語彙、その他諸々のルールに厳格に縛られた規律ベースの創作です。作者の自由に出来る部分など、ほとんど無いのです。

ただ。

客観的に正しい”だけ”の文章が面白いかというと、決してそんなことはない。伝わるだけだからです。

面白さを提供するためのインパクト、そこに主観性が必要になってくるかもしれません。

「揺さぶる」ための主観性

要するに、メッセージとかテーマとかいった、「作家性」と呼ばれる部分になると思います。

この辺よく分からないし、本当は僕はこの辺りも客観的な視点から作れるし、作るべきなんじゃないかと思っていますが、顔を立てるために項目だけ立てておきます。

感性と呼ばれる領域はこの部分に寄与します。発想力と言い換えてもいいかもしれません。筆力、あるいは手癖かも。

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論をぶち上げている暇があったら書けと言う話

なので、この辺で切り上げます。

トール缶が空かないくらいの酔漢の、戯言でした。