蕪Log

同人サークル「蕪研究所(ブラボ)」だったり、日常のよしなしごとだったり。あらゆる意味で日記です。

超歌舞伎 花街詞合鏡を見に行ってきました

 ゴールデンウィークが始まりました。幸いにも、期間中は1日出勤するだけで済みそうです。

 せっかく得たまとまった休みです。作業中の原稿は継続しながらも、新しいネタはたくさん仕込みたい。バランスを取った予定をGW直前に立て、その一日目を今日遂行してきました。

 所はニコニコ超会議初音ミクが日本の伝統芸能「歌舞伎」に挑む超歌舞伎を観覧してきました。

 賛否はさておき、とても楽しみやすかったので、そのポイントをいくつか紹介していきます。

www.chokaigi.jp

あらすじ

 普通の町娘「未来(初音ミク)」が、今全盛の花魁「葛城太夫(中村蝶紫)」の花魁道中を見つめている。彼女は憧れてその道へ進み、やがて廓随一の花魁、初音太夫となった。

 初音太夫がその花盛りのうち、仲の街を練り歩く花魁道中の最中、無頼の八重垣紋三(中村獅童)を見初め、思いを募らせる。

 初音太夫に思いを寄せ、通い詰めていた蔭山新右衛門(澤村國矢)は激高し、八重垣に因縁をつける。しかしその因果は単なる色恋沙汰に留まらず、古くより続き彼らの代に蘇った神々による対立の形そのものであった……

 ニコニコ生放送で配信されているようなので、詳しくは実際に見てみて下さい。

歌舞伎初心者でも楽しめるスクリーン解説

 正直なところ、歌舞伎と聞いて尻込みしていたところはありました。かつて観覧した一幕では、役者の言葉を聞き取るのが難しく、知識の無い状態では描き出されるだろう情景を思い描くのが難しかったためです。

 歌舞伎は特に、役者の豊かで偉大な表現力を礎としながら、観客側にも強く見識を要求します。演目における背景について事前に知識を持っていることで初めて、難解な節回しから登場人物の思いを推し量り、ついたてや舞台装置から場面を思い描くことが出来る。歌舞伎が娯楽として演じられた当時の人は、想像力が豊かだったのですね。そうした要求される知識と想像力、換言するなら教養と呼ばれるものを必要とされる部分が、歌舞伎へとっつきにくさを覚える原因の一つのように思えます。

 現代の技術と伝統芸能の融合を謳う超歌舞伎は、舞台の背後上段に存在する巨大なスクリーンを用いてこの障壁を徹底的に排除しています。

舞台の変化を視覚的に

 プロローグで未来が初音太夫となるべく、稽古に精を出すシーンが印象的です。一心に舞うミクの背後では、スクリーン上で桜が散り、花火が上がり、紅葉が映え、雪が降っている様子が刻々と流れており、長い時間が経ったと言うことを端的に理解させてくれます。

 その後、晴れて花魁となった未来が登場するシーンでは、花街の通りを客席に向かって歩いているミクが大写しになり、映像が消えた時には舞台上にミクが居るという演出がありました。

 この間僅かに5分か10分余り。察せよと言われると少し難しい急展開でしたが、映像による補助があったおかげで魅力的な導入になっていました。

字幕表示

 歌舞伎の特徴的な節回しは、普段使う言葉と違うこともあって不慣れな物にはなかなか聞き取りづらいものです。

 今回の舞台では、役者の活劇を大写しにした映像と共に「字幕」を表示することで、歌舞伎初心者にも物語を追いやすくなるよう配慮されていました。

 事前になんと言われるか分かっていれば、役者の声にこもった熱にも集中できるというもの。おかげで大いに集中できました。

 

 技術、特に初音ミクに象徴されるIT技術は、人の興味を広げ、人の知識を補強し、以て人の生を充実させるためにあるものです。

 超歌舞伎の舞台においては、とっつきにくかった歌舞伎が、技術によって門戸を開かれ、入門者が楽しみやすい物になっていました。

初音ミクと重音テトの顕界感

 そんなIT技術の申し子である初音ミクは、今回もスクリーンへの投影によって表れます。

 ライブの時のように激しい動きをするわけではなく、役者の立ち回りも重要とされる歌舞伎。細部のごまかしが利かない環境です。

 そんな中で、映像としての初音ミクは素晴らしかったです。華のように儚く、数多の人と引き合い行き会うが故の切なさを持った花魁の姿を見ることが出来たと思います。

筋書きは沈鬱にならないエンターテイメント。ニコ動の意義に思いを馳せる構成

 夢を抱き花魁となった未来は、しかし廓という閉鎖社会の中に囚われ、華やかな表の顔とは裏腹に苦しみます。その姿はVocaloid音楽を筆頭にして生じた、ニコニコ動画文化としての創作者への憧れと、実際にそれを為したものの苦悩と重なります。

 初音太夫を巡って争う二人の男の間にも、太古の昔より連綿と続いていた因縁がありました。初音太夫との関係に思い悩むあまり外法の青龍に取り込まれた蔭山新右衛門。彼に憑依した青龍により初音太夫への思いを遂げられぬ八重垣紋三。そして両者の間で、自らのあずかり知らぬところで愛する人を奪われる初音太夫。しがらみの根源たる青龍は、死に際に初音太夫の廓を含む町中を火の海に替えてしまいます。

 自らのままならぬ所から、意にそぐわぬ形の行動を強いられる様は、社会、あるいは人間であるというしがらみに囚われた我々の姿そのものです。このように翻弄されたまま終われば、綺麗な悲恋の物語として納得された筋書きだと思います。

 しかし、大詰め。初音太夫は思い人の残した刀を取ります。これが「しがらみ」の権化である炎を打ち払うのですが、その力の源が面白い。ニコ生ユーザーのコメントの文字を、「数多の言葉」として刀が吸収することで、その力を増していくのです。

 初音ミクがブレイクする素地となったニコニコ動画。そのコメントは、誰もが顔を見せずに投稿でき、創作者や他の視聴者と交流を持つことが出来る、(見た目上)極めて個人としての属性が秘匿された発信手段です。言葉としては確かに個人の放った物ですが、それは見返してみれば、一つの動画の中で覚えた感情のストリームのうちに流れる一条へと抽象化されます。その場に個としての責任は極めて薄くなり、コメントに残存する意味とはただ「言葉」の持つ力のみ。すなわち、個を滅却することで、コメントの文字列は全く自由な表現の場という力を得たことになります。これは逆説的に、視聴者、即ち創作物を受け取る側が想いを発信することは、いかなるものでも自由であるというメッセージを意味します。

 激しく燃え上がる、未来が求めた活躍の場。コメントを糧に初音太夫が、廓を焼く炎を斬り伏せること。それが持つ象徴的な意味とは、創作の場を護るのはいつでも、受け手の上げる歓声(もしくは、罵声)なのだということだと受け取りました。個人の範囲で言えば、フィードバックがなければ、いずれ作り手は自らを取り巻くしがらみに潰され消えてしまう。組織やサイトの範囲で言えば、利用者が居なくなればサービスは維持できない。作品と、フィードバック。その疎な粒度での「つながり」こそが躍進の糧になる。

 かつてあらゆる作り手と視聴者を繋ぎ、今もその土壌を提供するニコニコ動画が発信する催しにおいて、こう受け止められる物語を見られたことはとても良かったです。青春をVOCALOIDと共に過ごした私の郷愁も混じった感想になってしまいましたが、ご参考にどうぞ。  

歌舞伎は立ち見が可能のようです

 ニコニコ超会議は明日も開催、超歌舞伎も千秋楽を迎えます。ニコ生でも、現地で立ち見でも。

 上記の通り、VOCALOID音楽と長く親しみながら過ごしてきた私にとっては、とても楽しい一時間でした。ニコ動世代の方には是非お勧めです。