蕪Log

同人サークル「蕪研究所(ブラボ)」だったり、日常のよしなしごとだったり。あらゆる意味で日記です。

初音ミクシンフォニー2017に行ってきました。

 水曜日に初音ミクシンフォニーっていうVocaloid楽曲をフルオーケストラで演奏する催しがあって、ほぅほぅと興味津々で行ってきたのだけれど、はっきり言って期待外れだったって話をする。オタク向けコンテンツ特有の悪ノリに対して言及する。


 最初にフォローを入れておくと、東京フィルハーモニー交響楽団の演奏は文句なしに良かった。トリの一個前にきた「歌に形は無いけれど」の演奏は涙なしには聴けなかった。素晴らしい演奏をありがとうという気持ちはある。楽団の方々に、今回の罪は一切無い。
 では何が期待外れだったかというと、Vocaloidオタク向けの過剰なまでの擦り寄りだ。
 今回の初音ミクシンフォニーは開催としては二回目になる。そして初音ミク10周年という節目に合わせて開催される、まぁ「ファンとしては」特別な演奏会になる。それは十分に承知できる。
 しかし、それを理由にして、楽団の貴重な演奏をないがしろにして良かった物だろうか? Vocaloidオタクにしか通用しない内輪ネタによって、彼らの技術を不意に消費して? 指摘したいのは以下の三点である。


 まず第一に、演奏中にVocaloidから派生したキャラクターがステージ上を動き回りパフォーマンスをする行為。これは明らかに演奏に対するノイズに他ならない。キャラクター「ミクダヨー」については界隈の人間なら知らずにはいられないほどの知名度を持っていて、事実彼女が登壇したときにはかつてないほどの歓声が上がった物だったが、僕は帰り際に感想で漏れ聞いた「あの着ぐるみ何?」という言葉が忘れられない。
 この演奏会には二つの価値がある。Vocaloidのファンサービスと、純粋な東京フィルハーモニー交響楽団の演奏だ。その両者のバランスを取ったとき、その一方、即ちVocaloidオタクにのみ通用し、他方にはステージの冒涜としてしか映らない演出を差し挟むのは、初音ミク+シンフォニーとして新たな展望を示すという試みに対して、シンフォニーから初音ミクというコンテンツに興味を持ちたいという新参者に対して大変な苦痛となったはずだ。
 そして大抵のオタク以外の層、Vocaloidにそう興味を持っていない人間は、異物の闖入に幻滅したことだろう。先の感想がそれを物語っている。
 繰り返すが、このシンフォニーの目的は、Vocaloidからシンフォニーに興味を持って貰うこと、そしてその逆を提示することでお互いの間口を広げることだ。以下に10周年という記念イベントだからと言って、Vocaloidオタク寄りに差し向けすぎた今回のイベントは、明らかに失敗だったと言える。Vocaloidオタクの信心は高まったが、間口を広げる事に対してはエフェクティブでは無かった。


 そして第二に――これが今回の演出最大のミスだと断じているのだが――十周年記念演出として差し挟まれた常軌を逸した映像レターである。その内容は界隈では(悪名も含めて)有名な作曲者が、「初音ミクと野球拳を行う」という物である。この作曲者は、Vocaloidに性的な歌詞を歌わせ続けたことで界隈に名を刻んだ、まぁいわゆる問題児である。
 野球拳を行うからには当然敗者は脱ぐワケなのだが、お約束として作曲者の方が早速連敗する。すると当然裸同然の状態になるわけだが、これが良くない。初音ミクシンフォニーには、これを求めて外国人がいくらか来ていたりもする。すると、男がモザイクの必要な半裸状態になると言うことは、文化圏の違いによっては非常に苦痛を伴うハラスメントとなる。
 KARENT等の配信サービスを中心に、Vocaloidは世界に向けてそのコンテンツ力を発信しようとしていて、すでに一定数の人気を得ている。それが故にわざわざ日本のこんなところまでやってくる外国人がいる。それなのに、楽しみにしてきたVocaloidの代わりに、よく知らない中年男性がただ服を脱いでいく様を目撃させられて、期待を込めてやってきた来訪者たちは何を思っただろうか。恐らくは、このイベントに対して、またはVocaloidという界隈に対して、ひいては日本という国そのものに対してひどい幻滅を抱いて帰ることになったのでは無いだろうか。この件に関しては日本人も、怒りのコメントをTwitterでしていた。
 僕も同じ気持ち持ちだ。それに、ボカロシーンの黎明期を支えたPが、このような暴挙に出たことに対して、少なからぬ失望がある。一般的他者に対する配慮を一切無視して、内輪受けだけを狙っていくこの企画に首を縦に振る行為そのものが、Vocaloidという存在を広めていこうという主義に逆行する物だ。それはこれまで世話になってきたVocaloidと言うコンテンツに対する冒涜に他ならない。しかもそれがアンコール一発目に来たというのだから驚きだ。軽妙な緊張解しの意味もあったのかも知れないが、前述したとおりトリの前は感動必至の「歌に形は無いけれど」だったし、最後の選曲は覚えていないけれど、ゆっくりと余韻に浸る時間が欲しかったのは確かだ。それをPは一発でぶち壊した。純粋に初音ミクとシンフォニーの融合を楽しみに来た人々に裁かせれば、この行為は筆舌に尽くし難い大罪だと僕は思っている。


 そして第三には、単純にオーケストラとしての演奏がかなりおざなりにされている印象を受けた。これもまた残念なことだった。
 演奏された楽曲のうち、Vocaloidが唄う楽曲に対する伴奏が凡そ半分を占めていた。残りの半分のうち、そのさらに半分が、いわゆる「ネタ曲」、即ちVocaloid古参にしか伝わらない最初期も最初期、ネギを振り回す動画に用いられていたあの曲から始まり、長く回顧をするような。
 そんな「ネタ曲」の演奏が開始された直後、会場は笑いに包まれていたが、きっといたはずだ、「何が面白いのか分からない」といった層が。あれらの曲はメロディーラインが少なく、フルオーケストラの真の実力を生かすことが出来ない。オーケストラの演奏が、今年はおざなり――というより、刺身のつまのような添え物――になってしまっている印象を受けた。これが、僕が最も期待外れだと思った点である。
 ここからは個人的な話しになるが、僕が――そしてわざわざVocaloid曲をオーケストラとして聴きたいと願う層は、回顧やネタなどを求めていない。Vocaloidのメロディラインをオーケストラで再現するというその「再構築」の過程と結果に興味を持っているのだ。


 僕は、「作者」の投影として生まれたVocaloid楽曲という投影を、さらに実在するオーケストラという真なる存在によって演奏する行為に意味を見出していた。それは形を持たないVocaloidが歌詞とスコアを与えられて受肉した影から、Vocaloidという実体を再構築する意味を持つ。「主体が存在しないによるVocaloidと言う存在の特別性」に対して新たなアプローチで迫ることが出来るのではないかと、チケットを予約した当時の僕は思っていた。
 実際には違った。Vocaloidたちは司会としてプロジェクターの中で自らと自らの出演するゲームと、それから十周年を迎えるという事実を告げるための「人格(ただし、指向性を持った仮初めの)」を与えられ、自由を持たされたという錯覚を観客に与えながら、その実誰よりも不自由な台本に沿うだけの機械となっている。
 これは、Vocaloidと言う存在のあり方に対して真っ向から否定を示す扱いなのだ。なぜなら彼女らは本質的に「自分を持たない」ことであらゆる表現者の鏡となり、拡声器となり、故に表現者の表現を余すところなく伝える事が出来る存在だからだ。
 機械であると言うこと、プログラム通りに「目的」を与えられて存在するロボットという状態と、「自らは透明である」という事の差異は非常に大きい。表現者のインプットがそのままアウトプットとなり、その透明性のおかげで、Vocaloidが自分を定義しようと必死になる楽曲が生まれ、その土壌から「メルト」のような普遍的少女性や、「Leia」に代表されるような感情の代弁者としての立ち位置を確立していったのだから。


 冒頭で挙げた「歌に形は無いけれど」に覚えた感動というのは、要するに素晴らしい楽曲に対して、Vocaloidが歌ったあの歌を、オーケストラが再構築することで、そこに彼女らの不在性という初音ミク文化の第一のテーマを想起させながら、素晴らしい演奏によって生じる音階に潜む彼女らの影を同時に想起させるという、完璧な演奏に対しての物だった。
 余計なネタなど加えず、Vocaloidとオーケストラのシンフォニーとして常に演奏へ徹してくれていれば、上記三点にあげたような不満は生じなかったように思う。節目の年で、何か盛り上がりが必要だと検討するのは分かる。しかしシンフォニーという形態を取る以上、オーケストラ部分との親和性については特に気を遣って欲しかった。そして視聴者の中で明らかに賛否の分かれるような、下劣な演出は避けるべきだった。


 僕の個人的な不満は、長くなってしまったがこのようになる。
 再びフォローするが、東京フィルハーモニー交響楽団の演奏は素晴らしかった。それだけは、胸に刻んでおきたいと思う。オタクの悪ノリに付き合わされた彼らもまた、犠牲者の一人と言えるのかも知れない。