蕪Log

同人サークル「蕪研究所(ブラボ)」だったり、日常のよしなしごとだったり。あらゆる意味で日記です。

部屋捜しに人を操る話術を感じた話

会社が遠いので、近所へ引っ越せるよう部屋探しをしていました。

その時に対応して下さった不動産屋の担当者さんがしていた、契約を取り付けるための話の持って行き方に感心したのでメモをしておきます。

自分の能天気を戒める意味でも。

出来事

  1. Webサイトで立地の割に安い物件を発見する

  2. 不動産屋で話を聞くと、事故物件であったことが発覚する

  3. 希望に添う他の物件を提案される

  4. 内見にはついて行けないので一人で行って下さいと言われる

  5. 言われるがまま内見に行きテンションが上がるが、その日は契約せずに去る

  6. 冷静になって物件を見直すと細かい不満に気付き、契約を止めようと思い至る←今日

信頼を掠め取る術

巧みだなと思ったのは、上記出来事の2. の部分です。

最初に私が選んだのは、都心も都心、大きな大学にもほど近い物件で、相場よりも二万円近く安いものでした。当然何らかの訳ありだろうとはある程度覚悟していったのですが……担当者さんの説明は想像を絶していました。

それを、歯に布着せずきっぱりと言い切って見せたのです。そこにポイントがありました。

何かの契約をしに行く人は、多かれ少なかれ、契約を締結する相手のことを疑ってかかるものです。敵とまでは言わないけれど、底冷えする笑みを浮かべる大臣に対するくらいの温度感で。

そこに彼は、私の誤った判断を温かく指摘しました。その物件はヤバイです。忠告します、どうか止めておきなさいと。

これが、人の警戒心を緩める上で二つの方向から同時に襲いかかってきます。一つは、単に誠実さを示すことで、警戒を緩めること。

そしてもう一つが、「この人は間違った判断をしたら訂正を入れてくれるのだ」と、判断の正誤について信頼を預けさせることです。

教師に対する信頼と、思考停止の安らぎ

誤りを誰かに指摘してもらえると言うことは、安らかな状態です。その役割は、親や教師といった、多くの人がかつて全幅の信頼を預けただろう相手が担っていました。

そうした誰かに、判断を委ねられる状態への回帰――即ち子ども返りを、先の一瞬で私は起こしてしまったのです。

そうなれば子どもを御することなど赤子の手をひねるようです。提示した選択肢が、そのまま全ての選択肢となるわけで。担当さんの言うことが世界の全てです。

とんとん拍子で話が進んだ結果、私は、あれほど事前に調べて避けようと思っていた「定期借家」という文言に関して、無視を決め込み妥協しようとしていました。

話術、と言うより交渉術でしょうか。夢から覚めてみれば、判断とも呼べぬ盲信をしていた私ですが、なるほどと感心させられたところもありました。

判断の誤りを指摘するだけで、たやすく信頼を得られる人種が存在する。私はその、か弱い人種の一人だったようです。

物件は2月に入ってもまぁまぁある

そんな魔術から目覚める一因となったのが、不動産屋さんがやたら契約書を請求する書類をせっついてくることでした。

来られなければ申請書と身分証明書をスキャンしてメールで送ってください、などという、とても恐ろしくて出来ない代替案を提示されてさえいました。

もちろん、そこにも、忙しくて来れないでしょうからこういう手段もありますよ、という私の事情への譲歩がありました。

それから、この時期は不動産の流れが速いので急いだ方が良いと思って、という、一見配慮のようでいて焦燥を煽るものも。左の件は事実そうなので、はっきりと否定が出来ませんでした。

人の判断力――というよりも、選択肢をとんとんと狭めていく。つくづくよく出来た売り手さんでした。

冷静になって、改めてサイトを眺めてみると、入居する人も多いけれど出る人も多いようで、まぁまぁ良い選択肢が残っています。

目移りするのは疲れますが、喜びに満ちた疲労です。選択の自由、開かれています。

せっかくネットがあるのだし、常に広い世界に目を向けた視野を持ちたいものだと思わされた一件でした。

清水真理個展Dolls Fantagic Circus@横浜人形の家 に行ってきました。

年末に向け仕事が立て込んでいて、天皇誕生日は出勤でした。

いろいろ映画を見ようと思っていたのですが見事にキャンセルになり、フラストレーションがたまっていたので、このクリスマスイブは人形展で心を洗うことにしました。

まずは清水真理先生の個展です。きらきらしたカップルがたむろする横浜みなとみらい地区で開催されていました。

shimizumari.jimdo.com

清水真理個展Dolls Fantagic Circus

お人形の印象

人形を一瞥すると、まずは表情の主体であるアイの部分が真っ先に目に入ります。

清水真理先生のお人形から受けたその印象は、驚きと、興味でした。

力強く見開かれたまぶたに、いっぱいの瞳がこぼれ落ちそうに収まっています。新鮮さを感じづいてよくよく眺めてみれば、その理由はすぐに分かりました。

彼女らの純真な目はアイホールに、白目を含んだアイを収める様式ではなく、石膏で形作られた白目の形の上に、瞳となるガラス玉を埋め込む形で作られていたのでした。するとちょうど人間の瞳がそうであるように、虹彩の部分が半球状に飛び出す格好になります。ふっくらとした造形と相まって、それが前述の、見る者に訴えかける純粋な視線を形作っていたのでした。

続いてきになったのが、お人形の「白さ」です。

素材を見ると、石塑で創られているようでした。美術の教室にある彫像のような、白く、近づいてみるとすこしかさかさした、荒れた地肌を人形は持っていました。

内圧とイミテーション

お人形を見る際の自己投影というバイアスを自覚しながらも、かの人形達から私は、自我の偽りと、抑圧に反攻する内圧を感じていました。

真っ白でひび割れた皮膚を持った人形の姿。それは時折見かける、厚化粧を帯びたマットな皮膚の印象とリンクします。

化粧とは社会に身を置く者の、礼節という名の鎧でもあり、自らを飾り立てる衣装であり、それが故に自らの本質を覆い隠す仮面のような側面を帯びます。

それに少女が、全身を覆われた姿からは、周囲の期待に対して応えるべく、おとなしく従順であることを強いられている抑圧を感じました。

しかし、その枷に唯一妨げられぬ器官があります。瞳です。

彼女らの瞳だけは、明確な意思を持って前に出ようとしているよう感じました。

今にもこぼれ落ちそうなほどに見開かれ、前をはっきりと見て。それは鎧に押し込められた自我の圧力が、瞳という唯一の出口から噴出しようとしているようでした。

一見すると少し驚かされるほどに大きな瞳。それが少女の形を持った彼女らのなし得る唯一の主張なのだと。人形は自ら動けぬ者という文脈を考慮すれば、ひとしおに彼女らが愛おしく思えました。

役割の皮を被るのに疲れたら是非

先生の人形の中には、トルソーの胸部、腹部を開き、そのなかに歯車やメルヘンな生き物たちで作り上げた内面を描き出すというシリーズが存在していました。

人形には、無色透明でただ人を映す者と、こちらの想いを引きだしてくれようとしてくれる者があります。

清水真理先生の人形は後者に感じられました。私は、社会性の皮を被って生きる社会人としての疲弊を託すことが出来ました。

また心の洗われるような思いを出来て、良かったと思います。

横浜人形の家で2月頃まで開催中です。入館料も300円とお手頃です。

この社会の荒波の中で、人に言えない疲れを抱えている方に、是非ともお勧めしたい展示でした。

中川多理個展 幻鳥譚に行ってきました

コミケット91の原稿をひとまず脱稿したので、行きたかったところにいろいろ足を運んでいます。

今日は、パラボリカ・ビスで催されている幻鳥譚東京に行ってきました。中川多理先生作のお人形の展示です。

www.yaso-peyotl.com

人形の外観

中川多理先生のお人形を初めて間近に拝見しましたが、以下の四点が特徴的でした。

  • 肋骨が浮き、皮が裂けるほどに痩せた体躯
  • 四肢の巨大な球体による省略
  • 腹部の球体化
  • 目が合う

パラボリカ・ビス1F、むき出しのコンクリートで囲まれ冷え切った展示室。冬の冷気のためだと即座に断じることが出来なかったのは、お人形たちが持つ上記の特徴から来る、死に瀕した温度のせいかもしれません。

今にも折れそうなほどにか細く、息も絶え絶えな様。小豆を豆乳に溶いたような色をした、鬱血して血色の悪い肌。

体は肋骨がはっきりと浮き上がるほどの痩躯。そして開きも閉じもしない弛緩した唇。彼女らが生命を持つ少女であるとするならば、一目見てそれが風前の灯火だと分かる様子です。

彼女らのいくつかは、腹部をぷっくりとした球体に置き換えられていました。しかし充足を持たぬ彼女らの表情。そこからは欠食し栄養失調となった、腹だけが異様にふくれた幼い子どもが想起されます。

そして彼女らは一様に、こちらに目を合わせてくるのです。何を訴えかけようというのか、最後の光明を賭けるような、か細くも必死な目です。

思わず手を伸ばして抱きかかえたくなるような、必然的な引力を持ったお人形でした。会期が残り一週間と言うこともあってか、ほぼ全てのお人形が売約済みであったのも頷けます。

人形が見つめ返すと言うこと

私が人形を見るとき、胸の内にはいくつかの文脈があることを自覚しています。

  • 無制限の受容と吸収という特性に向けての哀願
  • 観測者の反照
  • 体の自由が利かぬことへの憐憫
  • 征服感に基づく愛玩

中川多理先生の人形はやせこけていて、いわば「飢えた」と言う状態を想起させる人形です。

しかしその飢えを受け入れ、満たすはずの腹部が、球体に置き換えられている。人間の素材として存在しないものです。これほどに飢えを主張しながらも、それを満たす器がどこか別の世界に消え去ってしまっている。

終わりのなく耐えがたい苦悶がそこにはあります。

四肢の球体への置換はまた、創造する器官である腕、探求する器官である足を、単純な喪失としてはもちろん、夢幻へと帰すこと。二度と手に入らぬ場所へと呑み込み、消失させることを意味していると感じます。

一切の希望に繋がる手段を、彼女らは断たれています。

その彼女らが、唯一残った瞳をもって、私たち人間を見つめている。

嗜虐的な想いが胸に浮かびます。心地よい感覚です。

しかし同時に、これほど不自由な彼女らの様子が映し出すのは、我々が多かれ少なかれ抱えている飢餓、即ち心満たされぬ状況です。

そこで、彼女らに共感が発生します。これも心地よい感覚です。彼女らになら私自身を託せる。逆もそうだと。

肋骨を覆う皮膚が破れがらんどうの胴体が見えるようなものもある、グロテスクな人形群でしたが、それでも彼女らが持っている不思議な愛着の引力は、私にとってはこういったものでした。

来て良かったなと心から思えました。素晴らしい人形でした。

(今回展示の主体である幻鳥というモチーフについては、その最後に残った瞳の力をすら、鳥を模した骨格マスクに置き換えてしまうと言う本当に容赦の無いものでした。全く出口のない絶望というのも素敵だなと思いましたが、流石に少し胸が痛くなりました)

人形展でデトックス

こうして人形を拝見できて、心が洗われるようでした。無尽蔵に思っていることを投げつけられるので、言葉に出せない気持ちなどを全部持ってくれるのですね。ありがたい相談相手です。

会期は来年の1/9までということで、チャンスがあればもう一度行けたら良いなと思いました。